中国魏朝の初代皇帝曹丕の妻。諡は昭。上蔡県(河南省南部)の県令、甄逸の娘で、中山郡無極県(河北省張家口付近)の生まれ。甄氏は代々、二千石の高官の家柄であった。三男五女の末女にあたり、兄は豫、厳、堯、姉を姜、脱、道、栄というが、皇后自身の名は記されていない。 幼い頃から聡明で、乱世にあって家族に慎ましやかな生活を説くなど、謹厳な性格の持ち主であった。
初めは、袁紹の次男・袁煕の妻だったが曹操が冀州を攻め落とした時に、曹操の嫡男曹丕(後の文帝)は、真っ先に袁紹の屋敷に乗り込んだ。その際に、甄氏を見初めて妻にしたという。 曹丕に寵愛され、息子の曹叡(後の明帝)と娘の東郷公主(早世した)を産んだ。しかし、曹丕からの寵愛は次第に薄れていき、郭貴人(後の郭皇后)や李貴人、陰貴人に移っていった。更に、山陽公(後漢の献帝)の二人の娘たちが入内したこともあり、悲嘆した甄氏は曹丕に対して恨み言を述べた。これが曹丕の勘気に触れ、黄初2年6月に死を賜った。
『三国志』魏書文帝紀によれば、甄氏が死を賜った翌日、日食が起こった。諸官は大尉を罷免するよう上奏したが、文帝は「天変地異は国を治める者への譴責である。どうして自分より下位の者へ責任を押しつけられよう」と言い、弾劾をやめさせた。
文帝と甄氏の息子・明帝は、即位後に母の名誉を回復して皇后とし、「その英知によって世を啓蒙した」との意味をこめて「昭」という謚を贈った。また、母后の一族に厚遇を与え、甄家の男子を列侯に取り立てた。彼らの家系は代々続き、後の八王の乱に際しても危難を回避し、血脈を保っている。
後代になると、甄氏の死は郭氏の陰謀であるとする史書も出てくる。稗史の類では「文帝が体調を崩すと、郭氏は「体調が優れておられないのは、甄氏が呪いをかけているからだ」と讒言した。文帝は激怒し、寵愛が薄れた甄氏に対して死を賜った」と伝えるものもある。『漢晋春秋』によれば、死を賜った甄氏の遺体に対して、郭氏は彼女の整えた髪を掻き乱し、その口には糠を詰め込み、棺桶にも入れられずに葬られた、としている。
しかし、文帝がしばしば諫言や意見の食い違いに怒って処罰を命じたことが『三国志』魏書諸伝に散見されることから、彼が不仲の甄皇后と口論になり死を賜った、とする魏書の記述には信憑性がある。また、明帝は先述のように母后とその一族を厚遇しているが、郭皇后に対して冷遇したり処罰した記述は一切なく、郭皇后の死後は文帝の首陽陵に皇后として埋葬している。これらの点を考察するに、やはり陰謀説は信用するに足りないと言うべきであろう。
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